島津斉彬


 斉彬はすでに四十三歳にもなっていた。ようやく薩摩藩主となった斉彬は、阿部正弘が期待していたとおりの名君であったが、残念なことに在位わずか七年にして、安政五年(一八五八)七月十六日、五十歳の若さで没した。死因は、赤痢ともコレラとも伝えられている。
 しかし当時、久光派の毒による暗殺という噂もあった。
 大金のかかる斉彬の進歩性を、調所の亡霊があくまでもあの世から憎もうとしているかのようであったが、斉彬は死に際して、久光の長男忠義を家督として三女幃姫を娶らせ、六男哲丸を順養子とし、久光を後見人とすることを言い残していた。

 これで重豪が遠因となった薩摩藩のお家騷動も、どうにかおさまったかにみえたが、なおも尾を引いた。
 哲丸が翌年一月に世を去り、幃姫も明治二年(一八六九)に没し、五女寧姫を後妻としたが、子がなく、斉彬の血は絶えた。皮肉なことに、斉彬と家督を争って敗れた久光の血、つまり側室由羅の血統が、島津家の正統となっていくのだ。