お由羅騒動


 弊害もあった。調所と斉興の強引さは、やがて「お由羅騒動」へと発展していくのだ。藩主の座をめぐって、斉興の世子斉彬擁立派と斉興の側室由羅の生んだ久光擁立派の対立が火花を散らした。

 斉興がいつまでも藩主の座にこだわり、世子斉彬薩摩藩の統治を譲ろうとしなかったことについて、さまざまな憶測が藩内に乱れとんだが、斉興がいつまでも退陣しなかったのは、調所のあと押しがあったからで、調所は斉彬を嫌っていたからだ。
 斉彬が、薩摩藩に財政危機をもたらした重豪に似ていたからだ。調所にしてみれば、せっかく財政難を建て直しておきながら、斉彬が藩主になったら、またもとの財政危機になってお家が危ないといった恐れがあった。
 進歩的な斉彬を嫌った調所にとって、保守的な久光は願ってもない薩摩藩主であったのだろう。

 しかし、英明な斉彬の政界登場を願う者も少なくなかった。斉彬派とよばれた者たちのなかでの筆頭は、幕末の難問をかかえて苦しむ老中阿部正弘だった。
 そのほかに、重豪の二男で中津藩主の奥平昌高、重豪の九男で福岡藩主の黒田斉溥、重豪の十男八戸藩主南部信頼といった者たちだった。
 斉興が引退しないのに痺れをきらした老中阿部正弘は、薩摩藩に害をおよぼさないという約束のもとに、斉彬を説得して、薩摩藩の密貿易を密告させるのである。

 嘉永元年(一八四八)十二月十八日、調所は密貿易の発覚で、その責任を一身にひきうけ、江戸藩邸において服毒自殺を遂げた。
 これで斉興の退陣間違いなしと正弘は安堵したが、それでも斉興は藩主の座に居座った。調所が常日頃から斉彬の襲封に反対していたからだ。久光暗殺計画が斉興の耳に達したのも、さらに斉興を依怙地にしていた。
 斉興は従三位への昇進を欲するあまり、藩主の座にこだわっていたのだ。そのため斉興は琉球平穏と幕府に届けたりしていたが、当時琉球は英人の通商要求などで、不安定な政情にあった。
 斉興は幕府にその偽りをつかれ、やむなく身を引くことになった。