出雲屋・浜村孫兵衛


 ところが不思議なことに、大坂の新興商人・浜村孫兵衛(出雲屋)という者だけが、調所の頼みに応じてくれたのである。頼んだ調所が信じられずに、耳を疑ったほどだった。
 調所は浜村孫兵衛の肚の内を探りかねたが、孫兵衛も抜けめのない大坂商人、確かな勝算あってのことだった。
 孫兵衛は調所の人柄を見こみ、「この人ならいける!」と踏んでいたのだ。薩摩藩の特産黒糖の利権を狙ってのことでもあった。
 浜村孫兵衛が調所の頭脳となった。調所は孫兵衛の指図通りに、薩摩藩の改造に乗りだした。

 調所はさっそく琉球を仲介とした中国貿易を幕府に願いでた。将軍家斉の岳父にあたる重豪の小遣い稼ぎとあっては、幕府も無下に断るわけにもいかず、年間三万両限度で許したが、それがのちに大規模な藩営の密貿易へと発展していくのである。
 だが、調所の真骨頂は、そんな一時しのぎの荒治療でなかった。薩摩藩のあらゆる産物の独占にあった。
 黒糖はもとより、菜種・生臘・鬱金(根から黄金の染料がとれた)・米粉・薬種などを強引に増産させると、すべて藩の専売とし、密売をきびしく取り締まった。
 なかでも黒糖の独占はきびしかった。奄美三島(徳之島・喜界島・奄美大島)の黒糖はすでに収奪の限界に達していたが、砂糖地獄とまで言われるほどに調所はさらにきびしく取り締まった。島民が黒糖に指をつけてなめただけでも、はげしい鞭打ちの刑にしか。横流しは容赦なく打ち首の刑とし、品質検査もきびしかった。入札の際には価格操作をして、独占価格の維持に腐心した。
 調所は孫兵衛の働きに対して、破格の待遇でその労に報いた。奄美産の黒糖七百万斤のうち、百万斤の益金を孫兵衛のものとした。

 重豪は晩年栄翁と号し、孫斉興の訓導につとめた。斉興は重豪の指導よろしきを得て、やがて藩主としての権力を、最大限に発揮できるようになった。

 天保四年(一八三二)二月二十一日、重豪はそれを見届けるかのように、八十九歳で没した。
 だが、薩摩藩の財政改革はまだ始まったばかりで、財政難はいささかの好転もなかった。しかし重豪が斉興に乗り移りでもしたかのように、調所をとおして、大胆な財政改革を推し進めていくのである。
 斉興は十七歳の若さで藩主となり、重豪を後見人としただけに、
重豪の分身のようなものだった。重豪が生きていたら、おそらくこうしたろうと思えるような強引さで、調所とともに財政改革を展開していった。
 このため斉興と調所は、どちらも重豪から切り離して考えることができない。そこで重豪の死後における薩摩藩の変貌ぶりを、いま少したどってみることにする。