調所広郷の財政改革


 調所が重豪から財政改革の命令を受けたのは、文政十年(一八二七)の暮れで、五十二歳のときだった。茶坊主あがりの調所は、重豪とその孫斉興の信任厚く、側用人の地位にあったが、財政に関してはずぶの素人で、借金五百万両をどうやって清算していくのか、見当もつかなかった。

 ここで、借金五百万両が現在の金額にしたらどの程度のものか、およそのめあてをつけておくことにしよう。
 当時の小判の金の含有量は文政小判で、1.956145匁だったので、三百億円程度となるのだが、金の流通量は今日と比較にならないほど少なかったので、使用価値にすると何十兆、いや何百兆円ということにもなろうか。

 天保元年(一八三〇)十二月、調所は重豪・斉興のs朱印状で、次の三つの目標を命じられた。
 
・天保二年から十一年までの十ヵ年間に、五十万両の積立金をつくること。
・右のほかに、平時ならびに非常時の手当金もなるたけ貯えておくこと。
・古借証文を取り返すこと。

 調所が家老に列せられたのは、それから二年後の天保四年三月であった。調所は刀を算盤に替え、心を鬼にして、財政改革にかかった。調所によって起用された者は数百人におよんだが、一人として中途で辞めさせられた者はなかった。それだけ調所の人を見る目がたしかだったことになろう。  薩摩藩は参勤交代の費用もままならず、江戸詰めの藩士の手当も滞って、中間や小者は逃げ出す始末だった。江尸屋敷は雑草が生い茂り、上級藩士が頬かぶりをして顔をかくし、庭の草むしりをしたほどだ。

 自由奔放で鳴らした重象も、これには音をあげた。
 「路頭に立つという言葉があるが、このわしは立つどころか、寝ておるようなありさまじゃ」
 と嘆いたとも伝えられている。

 調所は改革のための資金作りから始めねばならなかったが、薩摩藩の信用はがた落ちで、誰も相手にしてくれなかった。そればかりか、銀主たちはここぞとばかりに、これまでの貸し金返済を迫った。