島津斉宣と近思録崩れ


 重豪のあとを継いだ斉宣は、樺山久言(主税)や秩父太郎(季保)を抜擢して、徹底的な緊縮政策で、破局に瀕した藩財政の立て直しにかかった。
 そのため斉宣は、重豪がはじめた新規施策を、ことごとく放棄しなければならなかった。

 激怒した重豪は、文化五年(一八〇八)、樺山・秩父以下十三名に切腹を命じ、百十五名にもおよぶ関係者を処罰したうえ、三十七歳の斉宣を隠居させ、そのかわりに十七歳の斉興を藩主の座につけた。六十五歳の重豪は斉興の後見人として、藩政に返り咲くのだ。
 この事件が後世「近思録崩れ」とよばれているのは、樺山らが『近思録』の愛読者であったからだ。『近思録』とは、周敦頤らの語から日常に緊要な章句をとりあげ、初学者にもわかりやすくしたもので、朱子学では四書・小学とともに尊重されていた。人々は清廉潔白な樺山らの人柄を惜しんだ。

 重象は破局に瀕した薩摩藩の財政をなんとかして立て直そうとするが、倹約程度で挽回できるものでもなかった。
 ところがそんな薩摩藩に幕府の同情はなかった。むしろ重豪の派手な性格を憎み、ここぞとばかりに苛めにかかった。賦課金七万七千六百六十四両という幕命は、東海道筋の川普請に必要な経費で、当時の薩摩藩にそんな余裕のないことは承知のことだったが、面子にこだわる重豪は、あっさり引き受てしまうのだ。“高輪の下馬将軍”と称された重豪の権威が、かえって裏目となっていた。
 薩摩藩はもはやどうにもならない、誰が見る目にも、死人同然だった。
 ここで登場してくるのが、調所笑左衛門広郷である。