五百万両にも達した藩の借金


 時あたかも蘭学の勃興期で、重豪は財政難にもかかわらず、大金を投じた開化策で、薩摩藩をますます貧乏藩へと追いこんでしまった。

 しかし藩政の一新をはかった重豪の施政は、後世に大きな余徳となった。重豪は有能な学者を支援したので、数々の名著となって遺っている。学問 にすぐれた重豪の施策として、いまなお讃えられているのは、安永二年(一七七三)の藩学造士館(鹿児島大学の前身)や演武館の設立、翌三年の医学館(鹿児島大学医学部の前身)の設立である。
 ついで同八年には明時館を設け“薩摩暦”の発行にっとめた。“薩摩暦”とは、薩摩藩に行われた仮名ごよみのことで、島津綱貴が家臣本多与一右衛門に命じて撰定させたものだった。それは貞享暦以下官暦によったもので、領民の農作業に多大の成果をもたらした。
 明時館は天文館ともよんだ。今日、鹿児島市内で最も賑わっている“天文館通り”は、重豪の余徳をしのぶ一端であろうか。

 重豪はオランダ商館長とも親しかった。重豪が大金をそそぎこんだ新知識は、幕末日本の開化の父とまで称えられるシーボルトを驚嘆させるほどだった。しかし重豪のその新知識は、ふんだんに金のかかったものだった。中国語やオランダ語を学びながら、重豪はなんのためらいもなく、西洋の珍しい文物を惜しげもなく買いこんでいった。重豪は火の車の財政難にもかかわらず、十一代将軍家斉も羨むほど、華美な生活を堪能していた。

 重豪の二女茂姫は、将軍家斉の御台所だったので、重豪は将軍の岳父としての権勢も大きかったが、それなりに出費も大きかった。薩摩藩の借金は重豪のおかげで増え続け、とうとう五百万両にも達した。まさに天文学的数字であった。
 これにはさすがの重豪も音をあげた。万策尽きた重豪は、隠居のやむなきに至った。