島津家第二十六代重豪


 藩主の重年も、心労のあまり、平田のあとを追うようにして、翌年六月、二十七歳の若さで没した。重豪はそのあとを、わずか十一歳で継いでいたのだ。
 重豪は藩主になると、それまで一汁二菜に切り詰められていた食事を、さらに倹約して一汁一菜にしたが、様々な災害が薩摩藩を襲い、財政難が好転する兆しもなかった。災害の主なものだけでも、ここにあげておくことにしよう。

・明和九年(一七七二)における江戸桜田藩邸の類焼。
・安永八年(一七七九)の桜島噴火による田畠の被害。
・天明元年(一七八一)と寛政元年(一七八九)の二度におよんだ芝藩邸の火災。
・寛政六年一月十日の江戸大火は、桜田藩邸と田町藩邸を同時に焼いた。
幕府は罹災家屋の再建は質素にするよう令示したほどだ。

 災難は江戸だけではなかった。国許薩摩においても容赦がなかった。寛政二年(一七九〇)・四年・六年と三度におよんだ台風の被害も大きかった。
 因に六年の風水害による損耗は三十九万八千石にもおよんだ。実高三十五万石程度の薩摩藩は、米の減収だけでなく、ほかの農作物の損害も絶大だったことになろう。領民は草の根をかじって生きのびた。
 このため重豪は、藩政をみていくのに嫌気がさし、天明七年(一七八七)四十三歳で隠居、藩主の座を子の斉宣に譲ってしまうのだが、八十九歳で没するまで、およそ八十年間にもわたって、重豪は薩摩藩を牛耳っていくのだ。