窮迫を極める薩摩藩


 重豪は父重年のあとを継ぎ、わずか十一歳で困難な藩政にあたらねばならなかった。それだけでも不幸な生い立ちだったといえるのではなかろうか。当時島津家の治世は、窮迫を極めていたからだ。
 薩摩・大隅・日向の三州に琉球を加えた薩摩藩は、七十七万石の大藩だったが、それは表高で、桜島の噴火による火山灰地で土地も痩せ、台風の被害もあって、実高は三十五万石にも満たなかった。
 そのうえ江戸から四百里以上も離れた鹿児島からでは、参勤交代の出費も嵩み、さらに幕府がたびたび命じる各種お手伝い工事などもあって、もともと苦しい財政難に一段と拍車がかかった。

 宝暦四年(一七五四)の木曾川治水工事は、莫大な予算超過のうえ、八十余名におよんだ藩士の自決などもあって、工事の惣奉行に当たった家老の平田靭負は、工事の見分を終えた同五年五月二十五日、責任を負って自刃して果てた。薩摩藩では平田の死を、幕府をはばかり「腰の物にて怪我いたし候」と届けでるより仕方がなかった。